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俳優殺してどうする

演出家や監督も様々なように、演技を教えるコーチ/教師/講師も様々だ。

「あの演出家とこの演出家は追求しているところは同じだけど、アプローチが全然違う」ということがある。
同じ演技法を扱っていても、やり方や指導の仕方は人によって異なる。

僕の師匠スコット・ウィリアムズのImpulse CompanyのHPにこんな言葉が書いてある。

We do not believe it is necessary – or appropriate – to ‘break down’ the actor in order to release him or her. Rather, we provide the safe space and supportive environment in which the actor can explore the full range of responses that can arise during our work.

「私たちは、自分自身を出させるために俳優を『追い込む』ことが必要だとも適切とも、考えていません。それよりも、このワークに取り組むなかで生じる全ての反応を俳優が探求できるような、安全な場所と協力的な環境を私たちは提供します。」

Impulse Company web site ‘About Us’

スコットは70年代にサンフォード・マイズナーから直接学んだ。
「彼のクラスが好きじゃなかった。皆、恐れていた」と言っていたのを覚えている。
この演技法を作り、ネイバーフッドプレイハウス創立者のマイズナーはそれこそ絶対的な存在だったろう。俳優を見る目が確かで厳しかったのは映像や書籍からもよく分かる。

https://twitter.com/osho_jam/status/1495574667226017793

俳優を導くのにムチはいらない。
甘やかすわけでもない。
課題があればそれを乗り越えて欲しい。
「いいよいいよ」と言っているだけではなく。「役者殺すにゃ刃物はいらぬ 褒め言葉さえあればよい」もその通りかもしれない。
だが「刃物(そして刃物のような言葉も)」は俳優だけでなく、結果的に作品までも殺してしまうだろう。
また、演出家(監督)によっては、俳優をコントロールして作中の役の人物に近付けていこうとする人、即興と銘打って俳優自身のプライベートなことを皆の前で喋らせる手法を取る人もいる。
いずれも危険性をはらむ。


俳優が自分が正しいことを証明しなくても良いようにすれば、言葉は届き、自ら気付き、考え、行動するはず。
言うことを聞かせるために「論破(なんてくだらない言葉だ)」する必要も、プライドを傷つけたり叩き壊す必要もない。


なんだか「北風と太陽」のようだ。
「太陽」をやるには時間がある程度必要かもしれない。時間の無さ、技術の無さ、自信の無さが「北風」を選択させるのかもしれない。

これは演出する場合でも同じ。
「それは言わなくてもいいのに」という余計な一言をどれだけ聞いただろうか。
「それを言って一体誰のプラスになるんだ?」と。

数日前、ある映画監督が多数の女性俳優に性行為を強要していたことが週刊誌で報道され、それから俳優が受ける理不尽な扱いについて様々なツイートを多く目にする。
ハラスメントは俳優と映画監督/演出家/プロデューサーの圧倒的な力関係の不均衡から生まれる。

https://twitter.com/elisa_yanagi/status/1501864093246177280

コロナで亡くなった韓国人の映画監督(カンヌなどの映画賞も受賞し、僕も10年くらい前、何本もその作品を見ていた)の凄まじく悪質な性暴力もまだ記憶に新しい。
もう彼の映画を見ることは二度とない。
たとえ彼が犯罪的なことをしていなかったとしても(していたのは事実だが)、10年経って、どういう作品が受け入れられるかも変わっている。彼の作品自体がすでに古くなっている。
他の例では、コロナ禍のなかでイヴォ・ヴァン・ホーヴェの『じゃじゃ馬ならし』の配信を見たが、10年(くらい)前の作品だというのが率直な感想だった。暴力と愛を男性からの視点で描くのはもはや至難の業になっている。『じゃじゃ馬ならし』のような女性蔑視の著しい作品は特に現在の視点がないと厳しい。

話を戻すと、力を持った人間が自分より力を持たない立場の人間に対してとる支配的な行動には、何らかの原因があると思う。

支配欲だったり、自己肯定感の低さ、依存症etc。

「何かが欠けているから素晴らしい芸術作品が作れる」
そういう面もあるのかもしれない。
でもだからと言って自分の立場を利用して人を傷つける行為が許されるわけではない。
ひょっとしたら、倫理観を逸脱する自分に酔っているところがあるんじゃないか?
周りが見えなくなるほどの熱中があるのであれば、責任者として力を持つ人が引き戻してやらなければならない。


僕がもう一人「師匠」と尊敬するジェレミー・ストックウェルはこう言う。

「芸術はすべて『人間』についてのことだ。」

だとするなら、僕はこう思う。

人間、あるいは人間性についての仕事のために誰かの人間性を踏みにじったり、壊すようなことをしたら意味ないじゃないか。


「より良い作品のために」「芸術(あるいは演劇/映画)に奉仕するために」という言葉を掲げながら、人間を破壊することをしていたとしたら、これほどの矛盾と欺瞞はない。

それくらいの矜持は持っていたい。