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ほとんどの人

少し、いやこれを書いているうちにまた色々あって、だいぶ経ってしまったが、8月に劇作家協会主催のフォーラムシアターに参加した。
ロンドンでのクラスメイトがフォーラムシアターをやっていたりして話には聞いていたが、実際に観る(参加する)のは初めてだった。

フォーラムシアターとは、観客が参加できる演劇の一種で、二度同じものを上演する。初回は最後まで上演し、「あなたならこの状況を良くするためにどうしますか?」という問いかけのもとに二度目は観客がお芝居を止めて「自分ならこうする」「こうしたらいいんじゃないか」と舞台に上がって、俳優の替わりにやってみることができる。たいてい社会的なテーマを扱う。想定される観客層に関係のあるテーマであることが多い。

今回のテーマは「演劇の現場でのハラスメント」。

劇作家たちがプロットを作り、出演する。ファシリテーター(進行)は花崎攝さん、「フォーラムシアターと言えば」名前が思い浮かぶ方だ。

劇作家によって作られただけあって、よく練られていて、程度の差や火種の元の違いはあれど、見聞きしたことのあるような筋書きで、身体がギューッとこわばってしまうようなものだった。

しばらく経ったが時折まだこのフォーラムシアターのことを考えていた。

なぜかと言うと、自分の考え方に誤りがあって、それは自覚しているよりも強いものだからだ。

ごく簡単に上演された筋書きを説明すると、

ある若手劇団が演劇祭に参加する作品作りでの話。劇団主宰は演出家Aとその先輩である作家B。ベテラン俳優CはBが客演(劇団外からの参加)に招いた。
顔合わせの日、劇団看板俳優のDは劇団グループラインに「ペットのトカゲが病気で病院に連れていくので欠席します」と連絡。顔合わせにはC以外のメンバーが出席。つまりAとB以外に、劇団員Eと劇団制作のF(とは言え、実はAの彼女で制作について何も知らない。ちなみに19歳)と演劇祭全体を担当する舞台監督G。Aは顔合わせに出演する劇団員Dが不在ということにあからさまにイライラしている。Dの事情をFに説明させる。また、読み合わせの際に「おまえDの替わりに読めよ」とFに急に振り、客演のCに「こいつ女優なんですよ」と言う。CはFの名前を聞き「じゃあ●●ちゃんか」と馴れ馴れしく呼ぶ。

次の稽古日にEが現れる。Aは机の上に腰掛けてEの話を聞き「Cさんが来たら謝れよ」と言う。Bも場を収めたいばかりに「ちょっと謝ればいいから」とDに促す。DはCに謝り稽古が始まるが、トカゲの様子が気になるDはケータイを見る。それを見たAは「おい!」と怒鳴る。Cは「劇団のこと(問題)だから」と言ってタバコに行ってしまう。Aは「なめられたくないんだよ(いい加減だと思われたくないからしっかりしてくれ)」と怒る。稽古の後、全員そろったことだしとCはそのつもりで先に居酒屋に行く。Aたちもついていく。残ったBはDにも促すがDはトカゲの調子がまだよくないからと断り帰宅する。

稽古が進むが、Dの調子は良くない。Aからのラインが大量に稽古の後にDに届く。ある日の稽古でDの台詞が「入ってこない」とCが言い、稽古がストップしてしまう。AはDを詰める。結局、Dは降板し連絡が取れなくなり、劇団は公演を中止せざるをえなくなる。Bは多額の負債を抱えてしまう。Dは田舎に帰ったということをBは耳にする。

だいぶ省略したけどこんな感じ。作り手としては最悪の結果だと思う。
問題のある言動が色んなところに散りばめられていたが、二度目に同じものを演じる際にファシリテーターが「気になるところで止めて、意見を出してください。舞台に上がって俳優の替わりに演じていいし、それが難しければ意見を出すだけでもいいです」とあらてめて声を掛ける。そんなに手が挙がるだろうかと思ったが、いざやってみるとたくさん発言があった。

まず一番最初に出たのは「正直にトカゲと言う必要はない、”家族”と伝えたほうがいい」という「嘘も方便」意見だった。
正直なところ僕が思ったのは「まずそこからか?」と「でもそういう嘘も時に必要だよな」だった。
「ペットのトカゲが病気で」と聞くのと「家族が病気で」では印象が違う。初め物語を聞いたとき「トカゲか~」と思った。「トカゲで顔合わせ休むの・・・?」と。これは自分が他の人の立場だったら「おいおい、勘弁してくれよ」だし、客演のCの立場だったら「え?この劇団大丈夫か?」と思う。
(ちなみに、後から別の人が「やはり嘘をつくと、また嘘を重ねることになるから正直に行ったほうがいい」と反対意見を出していた)
また、Dに対して他にもあったのが「Dが顔合わせの欠席を伝えるのがラインというのは良くない。主催に電話で説明したほうがいい」というものがあった。たしかに。ラインだと一方的になりかねない。

やがて、ハラスメントの「被害者」であるDや「加害者」のAやCの言動ではなく、傍観者となっていて介入できそうな人(共同主宰のBや劇団員E、あるいは舞監のG)の行動を変える意見を出すと良いということが、観客の質問や進行側の回答により明確になっていった(最初はファシリテーターから特に言及されていなかった)。
制作であるFに対して「演劇の制作者であるからには~」という意見もあったが、さすがにそれは無理な話だというのは大方の反応だったように感じた。19歳で経験もなく、彼氏が劇団で演出やっているからと手伝わされている人に、ずっと年上ばかりの一座に対して気配りをして場を円滑に回すよう要求するのはあまりにも無茶だし、このFも被害を受けている側だ。

認知と行動を変えることができそうで、変えなければいけないのは、「加害者」と「被害者」の間にいる「ほとんどの人」だ。

僕は「トカゲか~」と思った。「ラインじゃなくて電話のほうがいい」と聞いて「たしかにそうか」とも思った。その意見はたしかにそうかもしれない。そう思わせるようなプロットを作ったのはさすが劇作家。
実際、現場でのよくあるハラスメントのひとつは、出演者が期待に応えていないと演出が思い、色々と言葉をかけるが上手くいかず、ついに我慢できずに暴言を吐いたり、怒鳴る、身体的な危害を加える、物を叩いたり投げたりする、個人攻撃や人格否定をする等だ。
そういうとき第三者に聞いてみると「それは演出が何度言っても俳優が変わらなかったから・・・」と言うことが多い。そこには「被害者が原因を作った」という考えがある。でもハッキリさせておかないといけないのは、被害者ができないのは加害の正当な理由にはならないということだ。劇作家たちがトカゲという設定を用意したのは、それを強調するためだろう。僕はまんまと「トカゲか~」と思い、「そりゃDさんも良くないよねぇ」と「被害者」にも改めるよう求める人になったのである。

人にはそれぞれのスタンダードがある。たとえば僕はメール等のレスポンスが遅いのが苦手だ。仕事であれば可能な範囲でだが、なるべく早く返信するようにしている。もちろん例外的に遅くなることもあるし、そういうときはすぐに返信できない理由もあったりするのだが、つい人に対しても同じように期待してしまう。相手に対して「なんで?」が生まれそうになる。
自分と他人は違うのだしと割り切っていても、返事待ちで事を進められないとやきもきしてしまう。返事を待っている旨伝えても何の反応もないときはまさにディスコミュニケーションだ。返信できない理由があるのだろうと推し量ることしかできない。しかし実際はどうなのか何の返事もないので分からない。重要な案件であるほどフラストレーションがたまる。

外から見ていれば分かるが、状況や関係性が修復不可能になるまでには、言葉が足りなかったり、たくさんのコミュニケーションの行き違いがある。
リソースが限られていてスケジュールがタイトすぎたり、仕事を兼務していたり、台本が遅れていたり、体調を崩したり、余裕をなくしてしまう要因がある。それら根本的な問題を改善できれば一番いいけども、仮にそれができなかったとして、このフォーラムシアターのBの立場で、そしてAの立場で何ができるのかを考える必要がある。

10年も前、あるイギリス人演出家のWSに参加して、教え方や考えが素晴らしいと感銘を受けた。そのことを別の場で大ベテランの俳優やコーチに話したところ、口をそろえて「でも彼は結構厳しいよー」と言っていたことを覚えている。つまり、講師としているときと演出家としているときは全然違ったのだ。
演出として作品への責任を背負うとき、「こうだ」「こうしなければ」「こうあるべき」を持つとき、葛藤が起きる。そこから他者に対して「なんで?」が生まれることがある。演出家はほとんどがその問題を抱えているのではないか。何せ演出は作品全体に責任を持ち、全セクションの関係者と直接やりとりをする。俳優には計り知れない仕事量と全く別の質のプレッシャーがあり、孤独さもある。

話を件のフォーラムシアターに戻すと、僕が知ったのは、あらためて自分のものの味方の危うさだった。
ハラスメント講習を受けても、認知の歪みは依然ある。流されやすさもある。ハラスメントを嫌い、ハラスメントをしたくない、容認したくない、この世界から、あるいこの業界から少しでも無くしたいと思っていても。かえってすごく危うい。
「果たして、そうか?」を自分や目の前のことに対して持とう。