私がやるマイズナーテクニックについて説明します。
「マイズナーテクニック」と言っても講師によってやり方が様々です。
私はスコット・ウィリアムズのやり方を踏襲していて、スコットはネイバーフッドプレイハウスでサンフォード・マイズナーから直接学びましたが、そこから彼なりにその要素をシンプルにしました。
マイズナーテクニックを他の演技術と区別する、最も特徴的な考えは「何が起きるかは、相手がすることによる」です。その要素を、より明確にしたやり方と言えます。
私自身は、サンフォード・マイズナーのやり方は本やビデオからしか知りませんが、スコットのやり方は元と比べて、より相手のbehaviour(挙動/態度/振る舞い。僕は「挙動」と言っています)を言うことを基本としています。これは先述の「何が起きるかは、相手がすることによる」というテクニックの一番核となる要素、つまり相手へ意識を向けることを重要視しているからです。
一方、元のやり方や他の講師では、リピテションエクササイズで相手の印象や相手の感情などを言うこともあるようです。
挙動を基本としている理由は、
1.相手の印象や感情を言うと、思考に寄ってしまいやすい。
2.相手の内面で起きていることは分かりえないし、自分の主観・推測の域を出ない。
3.印象や感情は言った人の主観に過ぎないので、言われた方がブロック(否定)してしまうことが多い。
4.印象をOKにすると、単なる悪口になってしまうことがあり不健全。また、どこまでは許容されて、どこからは不適切なのか線引きが難しく、やっている最中に考えてしまう。
5.言葉には影響力があり「私は悲しい」などと繰り返していると、だんだんそういう気分になってくることがある。たとえそのつもりはなくても言ったほうが相手を操作してしまうことがある。
6.人は自分が感じていることを相手が感じていると勘違い(投影)することがある。(そして本人は自分が感じていることに気付かない/認めない)
7.人は相手を動かすために、相手の感情を推測して言うこともある。(しかも言った本人は自分の意図に無自覚である)
8. マイズナーテクニックのリピテションエクササイズでは、言葉を「川の上のカヌーのように」浮かせた、言葉の意味にとらわれないやりとりをする。相手への印象など自分の感じたものを言葉にすることは、やりとりを言葉に頼ったものにさせてしまう。一方、感じたものを直接的に言葉にしないことで、それは身体的な(非言語的な)反応(挙動)となって表れるメリットがある。そして挙動は言葉よりも雄弁である。マイズナー自身が「1オンスの挙動は、1ポンドの言葉もの価値がある」と言ったように。(1オンス=約28g、1ポンド=約453g)
9. そして何より、相手の印象や相手に対しての意見、相手の感情は「私がそう感じたこと」であり、相手のことではなく、自分自身のことになってしまう。これはマイズナーテクニックの「何が起きるかは、相手がすることによる」という特性から外れてしまうもので、意識を相手ではなく自分自身に向けさせてしまう。
人は他者の感情を、相手の身体上に起きていることを通して、感じています。(それと文脈から)
「この人は怒っている」と、たとえば声が大きくなったり眉間にシワが寄ったり目つきが鋭くなったり顔が赤くなったり身振りが大きくなったりする変化、つまり挙動を通じて解釈しているのです。
それならば、挙動を言うことに徹しておけば、観察もより鋭いものなりますし、主観ではなく事実なので言われた側も否定はできません。よりシンプルに健全に練習ができるという考え方です。
シンプルさはリピテションの鍵です。頭で考えた演技ではなく、衝動的で、肚のなかで感じているものが表れるような真実味のある演技を手に入れるためのトレーニングですから、シンプルさを大切にしたほうが良いのは疑いようがないでしょう。
相手の感情を解釈しなくても、私たちは挙動ひとつで感じることができます。
また、このトレーニングは自己開放のためでも、感情を表現するためのものではなく、
主眼は「目の前の相手を観察して、そこから受けたものに(衝動を抑えずに)反応する」ことで、常に真実のある(嘘のない)状態で相手と交流する(そして扱える反応の幅も広げていく)という考え方です。一番最初にあるのは観察です。相手です。相手のいない反応や強い衝動・感情には価値がありません。
何が起きるかは、相手がすること次第です。
5については問題外なのですが・・・、実際私もそういう経験をしたことがあります。
ロンドンのスコットのもとで学んでいたとき、クラスメイトの友人たちと練習をしたことがありました。その友人たちはそれぞれ別のところで学んでいました。そのうちの一人がその練習をリードすることになりました。そこでのリピテションで私は「You’re samurai」「You’re dick」「You’re dumbhead」といったことを言われました。私の挙動ではなく属性を馬鹿にするものであり、相手が私を怒らせようとしている意図も感じ、その時点で相手の言動を100%受け取らないブロックを私がしてしまい、かみ合わない練習でした。その後数週間引きずるような経験で、具体的に何が問題だったのか、どうすればよかったのか考えました。俳優としてではなく私個人として精神的にダメージを負ったのだと自分で分かるのに少し時間がかかりました。それからその練習に私は参加しませんでした。
マイズナーの言葉で「礼儀なんてくそくらえ」というものがありますが、それは無礼になれということではありません。衝動を抑えずに、その瞬間感じたままに反応するために邪魔となる礼儀正しさや遠慮を取り払えということです。
残念ながら、遠慮を取り払うために、またリピテションをする両者のあいだに葛藤を生じさせるために、相手の印象を悪意を持たせて言うやり方させると聞くことがあります。あるいは相手の服装についての良し悪しを言うやり方をさせることも。私はこのようなやり方と考え方に反対です。
それぞれのやり方が作られたのには、それぞれの理由や演技観があります。
ですが、問題が大きすぎると思うものもあります。それで技術が身につくのだろうかと。そのトレーニングをやる人は苦痛ではないだろうかと。
リピテションエクササイズで起きたことはその中で完結します。終わったあとは切り替えます。エクササイズのなかで喧嘩しようが互いに抱きしめ合おうが、それはプライベートとは関係がありません。だからこそ、抑制を外して衝動のままに自由に相手と関わることにチャレンジできます。
でも悪意をもって傷つけるようなことを言われたら切り替えがしにくくなり、稽古場は思い切り飛び込める場所ではなくなってしまうでしょう。
これまで説明してきたことは、全て相手のことを言う前提でしたが、自分のなかで起きていることを言うやり方もあります。
これを私のところでしない理由は、自分に意識を向けるのはマイズナーテクニックの良さを損なわせるものであり、演技にあまりプラスにならないからです。
相手に常に意識を向ける理由は上記の通りで、マイズナー自身も「ただでさえ自分に関心の強い俳優という生き物をさらに内向きにさせてどうする」というようなことを(これはリー・ストラスバーグの「感情記憶」について語ったことですが)言っていました。
「今、自分が何を感じているか?」を確かめる、感じようとするのは俳優くらいです。誰かと関わっているとき、人はそういうことをしません。
自分の身体に生じた感覚に意識を向けたり、自分のなかに何が起きているかを気にすると、結果的に、演技をするときも自分がいかに表現するかに意識がいきやすくなってしまうでしょう。
それはつまり、自意識にとらわれて相手と関係のない、自分が考えてきた演技をする俳優や、いかに自分の感情を表現することを優先させる俳優が育ってしまうということです。
(自分が何を感じているのかあまりにも分からなくなってしまった人や、あまりにも抑制が強く自分の反応を出せない場合は、リピテションで自分が感じていることやしたいことを言うことによって、自分を表に出すことができるようになることもあるのでメリットがないわけではありません)
また、台本においても、登場人物自身が何を感じているかをそのまま喋るケースは多くありません。大抵は自分の本心を隠したり、意図を間接的に伝えようとします。
ちなみに、相手の挙動を言うという基本ですが、そこから外れる瞬間があっても良いです。ただし挙動を言うという基礎の「型」を大事にすること。それによって「相手を観察し反応する」という技術が確立されます。そしてその型を外す場合、確立した型を外れるだけの強い衝動があったときのみ意味を持ちます。無着成恭氏が語った通り、型がある人間が型を破ると「型破り」で、型がない人間が型を破ったら「形無し」です。
技術面では大まかに以上です。
繰り返し断っておくべきですが、それぞれのやり方には理由があります。良い悪いとは、明らかな害がないかぎり言えるものではありません。マイズナーテクニックは20世紀なかごろに作られた演技術で、何十年も経った今、その流れをくむ教師たちが、より俳優が使えるものにするために、それぞれやり方を進化せています。
それぞれに強みとその反対があります。学ぶ側も自分の目指す演技に合うものを選択できれば良いです。そのために、教える側はその演技法やトレーニングの狙いを適切に説明しなくてはいけません。
技術面と同じように私が重要視しているのは、教え方と伝え方、そして稽古場の環境です。
私は俳優を精神的に追い込むようなやり方は、それが結果を出すためであっても嫌いますし、害が大きいので取りません。また、俳優が講師の評価を求めるようにならないよう、伝える内容と伝え方を考えます。
練習は、持続可能なものではないといけません。そのためには健全でないと。精神的ダメージを強く負うようなものは続けられません。トレーニングで傷つく必要はありません。
これから技術を習得していこうとする方、これから創作の担い手となる方がより良い形で学べるように、学ぶ場を整え、使える技術を手渡せるようにしたいです。