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クリエィティブな場について

10年以上前に新国立劇場の演劇研修所を卒業して、舞台や映像の現場を経験して、
当時研修所ヘッドコーチだった池内美奈子さんのWSにたまに参加することがあった。
あるいは研修所に毎年教えに来てくれていたローナ・マーシャル(元RADAのコーチ)のWSに。
そこで久しぶりに研修所の修了生たちと、あるいは研修所が出来る前から池内さんのWSに参加されていた先輩方と演技を探求する時間を過ごした。

そのとき一番強く感じたのは、やるワークの面白さもさることながら、
「なんてクリエイティブな場なんだろう」ということだった。
目の前のやることに真っすぐ向き合う探求心に満ち、遊び心に溢れていて、アイデアがどんどん生まれて、反応が良く、芝居をする悦びを感じられる場だった。

共通言語のある仲間同士だし、作品を作る場とは違いプレッシャーが全くないという点はあるにせよ、経験する一部の現場との違い(自由度が低い稽古、出演者のなかにヒエラルキーが厳然としてある、怒声や物が飛んだりする、降板があったりする、過度だったり執拗な言葉での追い詰めがある、俳優を精神的身体的に追い込んだことを笑い話として語るetc)があり過ぎて、このブラッシュアップの時間を個人として次にどう活かしていけばいいのやらと悩んだりもした。

「心理的安全性」という言葉がビジネスの場だけでなく、創作の場でも注目されている。
「心理的安全性のつくりかた」(石井遼介著)によると、単に心理的安全性が高いだけだと「ヌルい職場」になる可能性もあるという。心理的安全性に加え「高い基準」があれば健全な意見の衝突も起き、「学習と成長する職場」となりうる。しかしそれもやはり心理的安全性が担保されていて成立することである。

心理的安全性が重要なのは、良い仕事をするためだと思う。
デヴィッド・ルボーが言っていたが、想像力とは筋肉に似ている。緊張状態にあり過ぎると本来持っている力は発揮されない。また「fight-or-flight response 戦うか逃げるか反応」で、一時的には力を発揮できたとしても持続性がないのでメリットが少ない。それに不安を感じていると人はその場で生存する方にどうしても意識がいくため、意識を共演者やその場ではなく内向きになる、つまり「自分の演技が上手くいっているかどうか?」にさせてしまう。

そして、作品のため圧をかけるのが本当に適切なことなんだろうか?僕は創作のために人間性を蹂躙するようなことはあってはならないと思う。「良い作品のため」という言葉は都合よく利用される。眉唾ものだ。表向きは感情的ではなくても言葉の下の悪意、私的な動機はあり得る。

月並みかもしれないが、やはり演技は「play」なんだろう。
子どもの遊びのようで、深刻になるのではなく真摯にあれば良いんだろう。
深刻になったとたん、遊び心や創造性は失われ、悦びも消えてしまう。
子どもの遊びのように、全感覚を使ってその瞬間を味わうような場がいい。

(追記)
僕がWSに参加していたのはだいたい約8年くらい前までで、その頃卒業したのは7期、8期くらいだったと思う。僕は2期生で、入った当時は1期と自分の代だけで、その近しさもまた独特だったかもしれなく、上が一つしかないので基本的にヒエラルキーを感じにくいのかもしれない。今は卒業したのも10何期となっているし、期が近い者同士が集まっていた頃とは感覚が違うかもしれない。自分は何も思ってなくても期や年齢がだいぶ上だということには自覚的でないといけないと思う。