Let Me Inというプログラムに興味があってロンドン郊外にあるRose Theatreまで足を伸ばした。National TheatreのあるWaterlooから、エアコンのないSouthwestに乗りWimbeldonよりも先のKingstonまで緑を愉しむ。(英語多いな!)
目当てはOddly MovingのHe Ain’t Heavy。
https://www.oddlymoving.co.uk/shows(映像あり)
Oily Cartも、もう一度観たかったので他の子ども向けのショーと組み合わせ二日連続で通った。
He Ain’t Heavyは要素としてはエアリアルとパペット、そしてストーリーテリング(何と説明すればいいか。つまり何かの物語を語るわけだ)。
このカンパニーの主宰のGrania Pickardの、弟についてのパフォーマンス。
彼女の弟は重度の学習障碍を持っていて、他にもてんかん、自閉症があり、大人になった今も精神年齢は18ヶ月程度の幼児の水準らしい。
ちなみにここでは学習障碍と書いたが、英語でLearning Disabilityと言っている。
知的障碍と学習障碍は違うのだが、実のところ、こちらではIntelectual Disabilityと混同して使われているような印象を受ける。実感として、あまりIntelectual Disabiltyという言葉を聞かない。
個人的には、知的障碍という言葉より学習障碍のほうが適当なんじゃないかと思う。
結局のところ、自立して平均的に生活するために必要な行動や知識を学習できるかどうか、という物差しで測っているのだから。
そのための知能指数であるが、あくまでそれも「平均」を起点とした一つの物差しに過ぎない。
その弟との関係、今までの彼女の人生での記念となる行儀での弟との不在(とても強いルーティンへの拘りがあるため、普段と違うことができず、劇場にも来ない)、この先彼の面倒を見るのは姉である自分の責任となっていくこと。
そういったことを、観客とコミュニケーションを取りながら表現していった。観客と一緒にエアロビクスのステップをやったり、弟の使う単語を一緒に言ったり。
僕は彼女のパートナーである「エミリー」として、ウェディングパーティの再現のためにステージに行った。誓いの言葉を、目をまっすぐに見て語られるという、予想もしなかった素晴らしい経験をさせてもらった。
そして、高さ4,5mはある、大きなブランコのてっぺんに立ち、そのパーティには来れなかった弟のことを語る彼女を観ているときだったか、
「このアーティストがこの作品を必要とした」のだと僕は感じた。
彼女が生きるため、と言えばいいのだろうか。
よりよく生きるため、というか
生きるために、このテーマに向き合い、表現し、共有することが、
必要だったのだ。
僕が観た回には客席に二人、障碍を持っている人がいた。
どちらも頻繁に何かを喋ったりして、始終声が聞こえていた。
一人は保護者と最前列、というか席の前の床に座り、時おり歩いたり、保護者に外に連れて行かれたりしていた。
保護者は常に彼を抑えてはいなく、様子を見てケアをしている様子だった。
他の観客も、これがどういう作品か分かっているので、そんな彼を受け入れていた。
あるとき、その彼がついにアクティングエリアにまで歩いていった。
舞台の下手手前から上手奥まで行き、ぐるっと弧を描くようにまた下手へ。ブランコのてっぺんにパフォーマーにがいるときだった。
すると、もう一人のパフォーマーと保護者の一人がすっと彼のところに行き、彼の歩む軌道にのせて下手前の通路へと導いていった。
推測するに、特別なケアが必要な人が来ることは当然回ごとに把握しているし、準備はしているのだろう。
ただ、こういうことは実際そのときになって対応することだ。
見ていて少しヒヤッとしたし、その間、パフォーマーが話していたことには意識がいかなかったけど、
そもそも・・・「気が散る」って、絶対的にダメなことだろうか?
たしかに、
演劇を観ていて、客席でケータイが鳴ったり、光る画面が見えたり、なんか喋ってたり、飴の包み紙をピリピリってやってて、
それがまた静かなシーンだったりすると、
あるいは昔、観たなんとかスパイダースの最後のセリフに観客のでっかいクシャミがかぶったときは「やりやがったな、こんちくしょうめ!」と思ったが、
それは真剣な会話劇だと、観客はその世界にいたいよな。俳優もね。ジュディ・デンチだったかが「あの人たちは劇場に咳をしに来ているのね」って冗談を言っていたらしい。
でも、どうしたって、そういうことは起こる。人間がいるんだもの。(もちろんケータイ鳴るのは防げるけどね!)
そして、お互いの存在を認め合ってる客席も素敵じゃないか。
パフォーマンスは誰のためのものだろう?
この作品は、障碍を持たない人も持つ人も楽しめるもので、
普段劇場に訪れ、じっと座って大人しく周囲に配慮して観ることができない人のためのものでもある。
作り手が何を作りたいか、というところから始まり、それだったら観客とはどう関わりたいかということが表れている作品だった。こういう作品を観たいし作りたい。